まだ、起業という言葉も、主婦がお店を始める、といったコンセプトもごくごく限られていて、いまほどに氾濫していなかった時代、1977年の創業だ。
もう、起業期をとっくに卒業しているのだが、このような起業もあったのだと記録しておきたい思いにかられた。ゆえに、草分けの“わけ”となった。
まず、3人の女性たちが核となった。それから近所の料理好きの主婦たちが加わった。
オーナーである大塚節子さん(写真:前列中央)は当時、都内の資産を処分して鎌倉へ移転してきた母からびっくりする計画をもちかけられた。老いてひとり住まいをしている数百坪におよぶ敷地と昭和の初期から続く大きな家屋を何か地域にお役に立てたい、と。
それまでにも、母がいろいろ慈善事業のようなことに関心をもって、自分の資産の一部を提供してきたことは知っていたが、住まいをそのまま活かしてしていったい何をしようと考えているのだろうか。すぐには合点がいかなかった。その後、母なりにいろいろ思案した結果、地元に料理好きで子供のお弁当などにも丁寧に心配りをしている人がいることを知って、その人に“白羽の矢”をあてたのである。
その人とは川端匡子さん(写真:前列右)。当時中学へ通う子供たちのお弁当作りだけではく、安全な食べ物など食に関して勉強熱心なことがご近所でも知られていた。
そういう料理上手な人がいるなら——鎌倉にはおいしい家庭の味が食べられるお店があると喜んでもらえるし、さらに地元の女性たちの働く機会にもなるでしょう。大塚さんとその母はさっそく計画を実行に移した。
当時、主婦という立場でお店をやるというのは、まだ一般的ではなかったし、観光スポットからも距離をおいた、ここ鎌倉の東奥の地ではいっそう前例をみることはなかった。しかし、それぞれに挑戦してみる気持ちは芽生えていた。川端さんは夫に相談した。その結果、料理を極めることは仕事にも家庭にもプラスになるからと、思っていた以上の理解を得た。一方、大塚さんも夫から、やるだけのことをやって、結果は二の次でいい、と寛大なサポートをもらうことができた。
ここまで条件がそろえば、もう何をかいわんや…、マネジメントをまかされた大塚さん、調理担当の川端さん、それに10数人のスタッフが集まり、試行錯誤が始まった。
当時まだまだ珍しかった家庭料理をベースにした季節御膳のメニューと閑静なお屋敷でゆったり食事を味わえるとあって、順調にお客さんの数は増えていった。川端さんは調理に専念し、仕事の合間に1年間、毎月京都へ通い辻流茶懐石を学ぶという力の入れようだった。大塚さんも母も、まずは営利よりきちんとした食事でもてなすことを最優先するという、資産家ゆえの恵まれた条件を最大限生かして、店の基盤を固めた。その結果は、東京から有名人やマスコミなどがやって来て、徐々に知名度を上げていくこととなった。
青砥は近くに架かる橋の名前が由来。それはさらに故事につながっているのだが、旧家屋の維持、景観の保存、そして地元型のビジネスをめざしたことなど、時代を一歩先んじたといえようか。
それから30年、大塚さんの母はすでに他界されたが、大塚さん、川端さん、それにスタッフの半分ほどは当時のままとうかがったが、これまで培ってきた味、おもてなしの仕方を大事にし、安易に時流にのることなく青砥流を維持。
しかし、高齢化は免れない。かつては1日100食以上も受けて、スタッフも20人ほどに膨らんだこともあるが、現在は1日50食までとして10人のスタッフは時給制で、交代で働いている。当時、みな現役の主婦ということもあり、開店は昼食時のみとしたが、これは今も変わらない。少人数のお客さんのほかに句会や同窓会、法事などの集まりでの利用が増えているそうだ。
加齢による味わい、それもまたいいかもしれない。
青砥のHP↓
http://www.kamakuraaoto.jp/index.html
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